ヨガを終えて、日が暮れるすこし前のニューヨークの雨上がりは、
数日続いた熱帯夜のその熱をすべて吹き飛ばしていて、
びっくりするほど爽やかな、そうして
淡い藍色と橙がかって色彩の弱い桃色の混じったsunsetが、
わたしの精神に静けさをもたらす仕上げをした。
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勉強をし始めてから、賢くなるどころか、
自分はほんとうに、どれほど無知なんだろうと強く強くおもうようになる。
立派なひとと話をしたとき、法律やら法廷やら立証やらむずかしいことばを
たくさん使われて、なんのことやらさっぱりで、ちんぷんかんぷんで、
漢字ではどう書くんですか?と聞いたところで、わかりゃしない。
最後まで、はなしは噛みあわずにとても恥ずかしいような気がしたけれど、
そうして、自分の弱さやコンプレックスに暫く浸かっていた。
いまこうしてもう一度”つながって”みると、
すべてのものごとはとてもとてもクリアに透き通って見えて、
選択に迷うことはないし、やるべきこともみえるし、全てはニュートラルに
均されてゆく。
そうすると、わかるんだ。わたし、じぶんでおもってたよりもよっぽど
真剣に、あたまがよくないんだろうと。
そうしたら、嬉しかった。
特別でない自分も、賢くない自分も、何ももっていない自分も、
誰にとっても意味のない自分も。
だからわたしは、いつでも言葉をさがしている。
自分が阿呆だから、小さいこどもでもわかるような言葉で、
いつも説明してほしいから。
精神世界や哲学の立派なひとが書いた文章は、
いつも実に小難しく、わかりゃしない。
わたしはただ、この身体で感じたその”つながった”感覚を、
もっとよりシンプルに、これからひとに伝えてゆけたらと
願っている。
今夜のような美しい夜の、そういうとき、そとに放ちたくなるものというのは、
とても普遍的であって、わたしたちの側に生きている、
単純でちいさなこどもでもわかる言葉なんだ。
仕事をして、恋をして、やることが山ほどあって考える時間がなかった時期も
とてもいとおしく幸せだけれど、今のように
徹底てきに思索にふける時間と
自分自身に100パーセント時間を注ぎ込める
そういう時間は、とても貴重だ。
時間はかかるし、ときにはとても滑稽にみえるわたしの人生だけれど、
すべては世界のために、実用的でなければないほどよく、
これからも、えっちらおっちら鈍く歩いてゆく。
今夜のことばは、こちら。
I, love you.
“I” turns “nothing”.
主格も所有格も消えてなくなるとき。
わたしが、わたしでなくなるとき。
それが、最近の、おきにいり。