「麻衣の、気持ちに、今は答えることができないから。」と
まっすぐ伝えてくれた彼の誠実さに
最初から最後まで、そしてこれからも、ずっとわたしは、
憧れつづけるのだろうとおもう。
彼の、真摯な研究に対する態度も
日本での彼の慣れ親しんだ暮らしも
栗色に光る その柔らかい髪も
毎日の新しい経験も
その 急須を持つ 繊細な指使いも
「終電」の発音も
練習の成果が効いた「今日げつようびか」も
なにもかも
初めてのデートに来てくれたときと同じ
眼鏡なしの姿に
ズボンの中にタックインされた
センスのいい淡いブルーのシャツも
なにもかも
わたしは、彼の名字を、
初めて会った日に2回訊ねて、
覚えるまで時間をかけて、
正確に発音できるように練習をして、
そしてカタカナで何て表記をするのか
考えあぐねて決めて、
そして、いつか、
その名を自分で名乗れて、
名を聞かれたときに
自然に答えることに
少しづつ
慣れているところだった
わたしはその名前を、
あなたの名前を、
ほんの少しの間でも名乗ることで、
あなたの一部を共有したようなきもちになって
嬉しかった、とても、幸せだったんだ。
と、
ちゃんと言えた。
日本にいるときに、不便とか、あったら、
ほんとうに、頼ってほしいと、
家族として、何か、してあげられることがあってほしいんだと
帰り際
東京駅の南口の真ん中で
抱きしめて
言った時
彼の顔が、ほっとしたように緩んで、よかった。
孤独なひとを、抱きしめるだけの器がないわたしは
自分がとてつもなくちいさくて弱いきもちがして
彼は、いつも
ひとりで大丈夫で
わたしが何かをしてあげたいとか
彼を抱きしめてあげたいとか
愛情の押し売りをすることが
いまは、自分のエゴだとわかる。
あのひとは、あるいている。
着実に。自分のみちを。
おそるおそるおそるおそる
古い古い石の橋をわたるようにして
彼はていねいに
毎日をいきているように見える
そこに寄り添っていけることを
望んでいた
そんな日々が
あったんだ
彼はもう
わたしと手を
つないではくれなかった
優しく
話を
聞くことは
してくれて
それがますます
胸の痛いきもちで涙が
止まらなかった
不安や不満があって、まいを責めたとちゃんと言ってくれた
僕も謝らなくてはいけないこと、
たくさんあると。
彼は、きっと
寂しくはないのだろう。
もしかしたら寂しいのかもしれないけれど
その寂しさを埋めるのはわたしではできなくて
彼にとって
膨大の量の日本の民俗にまつわる情報や
大学関係者や宗教関係者
日本をこよなく愛しているひとと
もっともっともっとこの先もたくさん繋がってゆくに違いない
それはわたしと結婚しつづけて
穴だらけの日々をあっちやこっちで続け
そして子供なんか産んで 寂しいおもいをさせ続けて
そして自責の念に苦しむ
そんな生き方ではないのだ
わたしに、できることを考えよう。
考える時間が欲しいといった彼
わたしの手を決して取ることをしなかった彼は
優しくて、そして私のことを
ちゃんと愛していたこと
飾りのない10本の指は、わたしをとても心細く感じさせて
久しぶりにこの私の大好きな
ジネットの
細くて頼りなくて一切の飾りのない
ゴールドのリングを左手の薬指にしたら
わたしはまだ 彼の苗字で
彼は彼でカタカナ表記の仕方を去年
ふたりで決めたあとそれを使い続けていることに
切ないきもちがした
わたしたちはとてもじゃないけど
夫婦と呼べるような関係ではなくて
かといって恋人でもなく
友達でもなく
ルームメイトでもなく
紙の上だけでつながっていたような関係
そして自分が幸せになれないとわかっているのに
それでもなお幻想に捕われるような
最初にあったときに
最初からわたしの全てを掴まれて持って行かれて
そして絶対離さぬような彼の吸引力に
いまもなお彼の持つ
絶対にぶれない信念のような
意地のような
真っすぐに目標にむかっていくだけの姿から
めを離すことがどうしてもできないのだ。
「連絡、していいから。
返事するように努力してみる。」
それを言われたとき、「どうして、今?」と辛くて、
わたしが繋ごうとする手を、決してとろうとはしないのに
優しくしようとする
彼の努力しようとするこころをわたしがもっと
理解するように努めていたら
わたしたちはまだ
夫婦になれる可能性があったんだろうか
と「わからない」の環にまたはいってしまいそうだった
わたしが人の肌の温もりなしで
生きて行くことができないことは
きっと紛れも無いじじつで
そんななか
ふれあうことのない関係を
それでもつなげていけるやりかたが
いまは、ただ、わからない
わからない わからないといっていちねんが過ぎ
またいちねんが過ぎ
それでわたしは
しあわせなのだろうか
のどが詰まって
I love you,と、
言いたかったのに
言えなかった
I love youと、言ってほしいと
言いたかったのに
言えなかった
いつか、ずっと前に言ってくれた彼の言葉や
彼の温もりを
わたしは引きずり続けて
ずっとそこから前に
進めずにいたから
まずは
本当に
今に、地に足つけて
歩くことを
始めなければいけない。
教授を訪ねるから印象が良いと思ってといって剃ったひげは、
わたしの好きな
忙しくてボーボーに伸びた見なれた姿とは
かけ離れているし
初デート以来にみた眼鏡なしの姿は
数週間の空白の後にみると
本当に別人のようで
東京駅の丸善の前で
彼が現れたとき
わたしのしらない
全然しらない
人に見えた
それは とても
さびしいことだった
でも、出会った頃のそんな顔は
やっぱり幼く見えたのに
その日はもう
わたしの知らないおとなのかお
わたしにとってかれは、
憧れの存在のままで
きっとこの先も
頼ったり 頼られたり
手と手を取り合って
支え合って
生きて行くことは
できないのかもしれないけれど
それでも
ああして
やさしさが
静けさに満ちた
やさしさが
ふたりの間にありつづけますように。
「麻衣の、気持ちに、今は答えることができないから。」と
まっすぐ伝えてくれた彼の誠実さに
最初から最後まで、
そしてこれからも、ずっとわたしは、
憧れつづけるのだろうとおもう。