台湾人は、やっぱり、底抜けに親切だった。
台湾という場所は、とても不思議だ。
町はまだまだ汚く、道はバイクで溢れかえっていて、騒音も排気ガスも尋常じゃなく、
忙しそうで、とても人々に余裕があるようには見えない。
どうしてこんな喧噪のなかで、誰かの声に耳を傾けるこころのゆとりが出来るのだろうと
不思議に思えるほど、驚くほど、ひとは、優しい。
道をきけば、「知りません、お役に立てずごめんなさい」とさっさと行ってしまうのが当たり前の感覚はなく、
この国では、わたしが目的地にたどり着くまで助けてくれようとする。地図を開くか、人に一緒に訊ねてくれるか、
ましてやその行きたい場所まで人々は一緒に案内してくれる。
言葉が上手に通じなくても、忍耐強く笑顔で理解しようとしてくれて、たった一杯のお茶を買っただけで
ていねいに頭をさげて、感謝を示してくれる彼らの温かさに、何度も救われる。
中国や、韓国や、日本や、同じ顔をしているアジアでも、
数々の過酷な歴史をくぐり抜けてきたこんな小さな小さな島国の、そんな国民性が
いったいどこから培われているんだろうと不思議におもうほど、
あたたかい、国。
ー
猫とか、野生の動物は、死ぬ間際になるとどこかへ姿を隠していくと言われるけれど
自分が生涯を終えるその瞬間を
どの場所で迎えるのか
それを探して、そして見つけて、ひっそりと息を引き取ることが、
とても自然のあるべき姿なのだろうと
つくづく思う
それは実に本能的なもので
命を産み落とすときも
同じことが言えるのだと
今自分が実際に体験しながら気づく
安全で、安心できて、自分が自分と産まれて来る命と調和していられる場所
何にも邪魔されずに、ただ、自然に身をまかせて、そんな神秘をなしとげられる場所
そういうものを、直感的に、本能的に、
探している。
ー
愛知県の岡崎にある、吉村医院という病院。
自然出産で有名な先生の徹底されたポリシーの元になりたっている
出来る限り医学の介入を抑えて、医者に身を任せるやりかたでなく
あくまでも母親と子どもに能動的な態度でお産に向かわせる
そんな場所
出産は、とても限られた数しか今は受けつけていないということで
残念ながら今回はそこで産むことはできないのだけれど
ご縁があって、検診だけしてもらえることになって、
そこで感じる、その「場所」という、包み込むような優しいエネルギー。
この先2人目を産むときには、ぜひその場所で体験することができたらいいなあと
つくづく思えた今朝。
これか、これか、これっぽいかな?と
こころの中で計りにかけている何かというのは、
迷いのない100%の「これ」に出会う時、一瞬で霞むものだ。
「これ」は、迷う余地など、一ミリも与えない。
そういう自分が絶対的に身を委ねられるなにかに
こうして度々出会えることは、
本当に幸運なことのように、おもう。
vipassanaの瞑想センターは、どの国でも、どの場所でも、
足を一歩踏み入れた途端に、同じエネルギーが流れているのがわかった。
吉村医院に辿りついて、門をくぐったとき、
わたしが感じたのは、それと同じだった。
のこり二ヶ月と少し。
自分の身体を通して、いのちが誕生するその日まで、
こころと身体をてっていして調和させていく作業に、
いそしみます。
台湾だいすき