わたしは、写真を撮るのが好きで、若いときは
いつもカメラを首からぶらさげて、写真を撮る側の人間だった。
だから、カメラを向けられれば、自分の写りもそうだけど
構図とか背景とか露出とかシャッタースピードとか感度とかが
気になる。
いろんな立場を経験するのはとても楽しいことで、
いつか自分がファインダーを覗いて、その相手の一番美しい顔の一秒を探したり、
光が揺れ動く瞬間の一番いいところをじっと耳を澄ませて待つことをしたり、
そっち側から
こんど、
ファインダーごしに覗かれて、じっと見られる側をやることになるとは
そのときは思いも寄らなかったし、とてつもなく
最初心地が悪くて、いやだった。
自分で撮る自撮りか、三脚をたてて自分がおもった構図で
自分をそこにいれるものが、一番
思い通りの世界が表現できるから、楽だ。
いま、わたしは何を体験しているのだろうと思った時に、
「写真」という喜びと、もともと自分が好きな世界
「写真を撮る楽しさ」が
そこには広がっているのだとわかった。
わたしはつまり、自分の思い通りに写真を撮っているわけではないのだけど、誰かの手を借りて、そのひとの感性と合わさった状態で、
それがひとつの写真になる。
という体験。
これは、やってみるととてもスペシャルで、
自分をより美しく見せるという工夫と、それだけではない、
自分がファインダーを覗いているつもりで
撮る側と「ひとつになる」という体験だということがわかった。
最近、ひとといるときに、
よく、自分が与えているときに同時に受け取っていて、
受け取っているときに同時に与えているという
ひとつの感覚をよく感じるようになった。
前はもっと、一方的だったり、
分離していたり、
あいては相手であり、自分は自分であり、
それは違うものだ。
という感覚が強かった。
それが薄らいで、相手は自分とは違うからこそ、
自分の足りないところを綺麗に埋めてくれ、
また自分では気づけないことがたくさんある、自分の持っている
「なにか」は、相手の元に渡っているということ。
日々、シンプルな出来事や経験のなかで
幾層にも折り重なった体験をさせてもらっている。
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