いまから思い返して、一番さいしょに自分が、つまづいた疑問があって
それはまだ、こどもの時だったとおもうのだけど
「ひとに優しくする」「思いやる」
というのが、どこから派生するのかという疑問だった。
それは自分の中ではとても自然に湧いた疑問で、たとえば
「ひとに優しくする」のが好きなひとというのは、
それをすることで、自分がいい気分になれるからするのか?
それともどんな理由があって、それをするのか?
そんなシンプルな感じだったとおもう。
ひとに優しくするのは、結局自分が社会の中で都合よく可愛がられるための知恵なのだとそう感じて、それは、とても自分勝手な行為なのでは?
とそのとき子供ながらにそう思ったのだ。
それからわたしはおそらく、「ひとに優しくする」「思いやる」という行為を、右斜めから見つめ続けた20数年だった。
誰かのために誰かに優しくするのが、自分のためならば、それは偽善だ。
それでは、別の理由が、わたしにはきっと必要だった。
わたしは通知表の「思いやり」という欄に二重丸がつくことがない子供だった。
基本自分中心で自分勝手だったし、上みたいな疑問につまづいていたので、「人に優しくする」ということ自体、自分のなかでの置き所と意味がわからずにいた手前
ひとに優しくしたい場面でも、多分それができなかったんだとおもう。
愛のことを学びはじめ、自己愛につまづいたわたしは、それから旅を続けるなかで
ようやく今、はじめていつか疑問に感じた答えのようなところにたどりついたんだとわかった。
まだことばにはうまくできないけど、肌でそれが理解できるまでに
とてもとても長い時間がかかった。
愛することは、ひとに優しくすることは、思いやりを持って生きることは、誰かの役に立つことは。
悪いことではない。
でもそれは、無条件ではないと思う。
いろいろなしがらみや犠牲や、嘘の混じり合った混沌としたこの
人と人が関わりあう中で
ただ一点の純粋なものを見出すことができるひとは、とても少ない。
わたしがいつか感じた疑問の行き先は、
いま足を踏み入れた場所なのだとわかる。
多くの人の力を借りて、導かれ、ここまで来た。
愛することに、理由などいらない。
ひとに優しくすることに、理由などいらない。
思いやりを持って生きることに、誰かの役に立つことに、
理由などいらない。
もしそう思うひとがいるとするならば、
考えることを最初から放棄したひとか、または本当に高次元に生きる神聖なリーダーのどちらかだ。
わたしはもがいたが、それを追い続けてよかったと今心から思う。
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