彦根城の向かいに
あの日見た真っ白な景色
絶望という絶望
漕いだことのない、旧いボートの柄を、波ひとつない水面の奥底からゆっくりかきあげるように、重たく、確かに、その時計を過去へと戻してゆく。
あの日見た景色と、今この瞬間が重なるその場所に着く頃には、水が自由にボートを滑らかに流してくれて、漕ぐ必要がなくなるくらいに時間の流れを行ったり来たりするものだ。
それはもしかしたら、わたしが生まれるもっとずっと前に、いつか祖父が繰り返し娘を車で連れてきた彦根の、そのときの時間まで遡るかもしれない。
梅雨に入る前の、青々とした初夏の蒸し暑さと、ヒタヒタと音を立てずに城を囲む、堀の川の静けさ。
ぐるりとその脇を通る道を行き交う車や自転車は、自然とその景色に溶け込んで、まるで跡形もなかったかのように向こう側へと消えてゆく。
わたしが行きたかった場所はもう無くなって、そのせいでわたしは道に迷ったのだった。
それで、行きたかった場所がなくなった代わりにこうして、どこか家に似た場所に帰ってくることができて、それで良いのだと思う。
もう、どこにも行かなくていい。
絶望に始り絶望に終わったわたしのあの日の旅は、たしかに生への祝福に満ちた今への伏線だったと思うから。
急がなくていいし、焦らなくてもいい。
もう二度と、失われたこの3年間のような思いはしなくていいのだ。
わたしはここにいる。
あの日独りで訪れたこの場所に、最愛のひとと。
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