今日、潤君にまいは、僕の事愛してるか聞かれて、「ふつう」と即答した。
わたしには、命を差し出してくれるくらいに心底愛してくれる男が何人かいる。でもわたしは、誰ともつきあってない。
というかは、誰ともつきあうことができない。
小一時間考えてから、わたしは本当は、誰のことも愛してないのだとそう思った。
わたしは、誰のそばにいることもできない。
とても難しい。
それは発達障害も関係しているし、もともとの気性もきっと関係しているし、誰よりも恋愛体質で、モテる人生を歩み、誰よりも色恋が好きなわりには、いつもひとりなのだった。
誰かを1人選んで、ともに生きていくのは、本当は嫌なんだろうなとすごく今日思った。
わたしはいつか、潤のことが好きだった。心底愛していた。
過去生でも大好きだった。
なにもかも全てをささげて明け渡して連れそう覚悟はいつもあった。
でも、あの日、最後の最後に驚くかたちで裏切られたことで、わたしは、愛したり愛されたりすることは、実際に一緒にいられるかどうかにはまったく関係ないのだと悟ったのだ。
愛することは、学びに満ちている。
何かを選択するときに、愛しているかどうかは実はあまり関係ない。
わたしは、自分のことを死ぬほど愛する男たちをずっとみてきて、彼らが本当に、勇気を出して愛するものを選ぶ代わりに、愛していないものを選ぶさまをずっと眺めてきて、そして、
人は弱いし、愛することは簡単で、でもそれを守り抜いたり勇気を出して何かを選ぶことのほうがよっぽど難しいのだと悟った。
それからわたしは、誰かが自分を愛することに、耳を貸さなくなった。
所詮、愛しても、それはいつもファンタジーで泡のようにキラキラと散るだけで、現実の世界で何かを支えてくれることはなかった。
今日潤が出会ったときから一度もぶれずにわたしのことを愛してると言い続けたことや、いつしか辛い時間を過ごしたことや、嘘や、裏切りや、悲しさのいっぱい詰まった愛や別れのことを思い出していた。
とくに今何か傷が疼くことはもうなくて、わたしには辛いレッスンだったけれど、わたしのほうは全力を尽くして愛を捧げ、しっかり時間をかけて癒した時間もあった終わった恋だった。
誰かを死ぬほど愛しているとき、相手が同じくらい自分のことを愛していなければ不安になるのは当然のことだと思う。
それが男や女の情事であればなおさら。
わたしにとっては、相手がどこを向いていようが一途に、ぶれなく愛することができるがゆえに、簡単に離れることがいつもあまり理解できなかったけど
でも別に、それすらも今は、重要ではないような感じがする。
わたしが、潤を愛していることなど最初から当たり前で何も変わらないことで、わたしにとってはそれはとてもふつうのことだから、だから「ふつう」と答えるのが最もふさわしい感じがした。
なぜ、愛してるか訊く必要があるのかが謎だった。
それでもこれまで、本当に真っ暗でひたすらに孤独に泣いていたときに、
何ヶ月も音沙汰がない電話の開口一番で「まい、愛してるよ」と本当のことばで言う珍しい人だったから。
その愛に、ずっと支えられているのは事実だと思う。
暴れても、噛み付いても、自分が自分のままで傍若無人でいても、わたしのことをティンカーベルだとおもっている(たぶん目が見えてない)潤君。
わたしは潤君が好きじゃない。でも嫌いじゃない。ふつうだ。
それを愛と呼ばずして、なんと呼ぶんだろう。
もしも潤君とセックスする日がいつか来るのだとしたら、とりあえず「変わったことはしないで、ふつうにしてくれ」と言う。