昨日、夜寝る前に、もし山下が肝臓がんだったら、どうするかを考えていた。
転職先の会社や山下が仕事を決めるのとは別で、自分は、それで、どうしたいのかを。
健康な山下に生きることをサポートしてもらうことが、もしできなくなるなら、わたしたちの関係に、意味はあるだろうか?
わたしはまた、新しく誰かを探さなければいけないんだろうか。
表立った言葉や、意思や、望みを交わすことが、こんなにも当てにならないものだったことを、わたしはこの数年自分の特性を知ることで、いやというほど気付かされた。
何を聞いてもわからないと答える山下は、過去、愚かに見えた。でも、わたしが自分自身を知った先にあったのは、それは特性上のものであり、あまりに無垢で、奥底にはちゃんと意志も想いも愛も埋もれているけども、うまく表に出てこないだけだったという事実だった。
生身の山下の身体を前に、その手を握った時、彼を信じていいのか否かの感触のようなものだけが残って、わたしは、この人と暮らすんだな、とそう思った。
それは、結婚したいとか、一緒にいたいとか、彼はどう思ってるんだろうとか、そういう意志を越えた場所にある、「もう、それで大丈夫なんだ」という諦めに少し似た、全てを受け入れた先の安心感だった。
たとえば山下はきっと、肝臓がんでした。という精密検査の結果を手にした時に、「だから、一緒には暮らせません。」と言うだろうと思う。
マイのサポートをする。が彼がわたしと一緒にいるための名目ならば、それが消えた瞬間に、彼の中では手を挙げる価値が無くなる。
でも、りゅうじはきっと、わたしを求めても、恋しても、言葉にならない愛を感じても、欲しがっても、ずっと一緒に居たいと願ったとしても、それは決して、表に出てこない。
もしも病気を治療しなければいけない状況で、そばに誰かがいてほしいと願っても、わたしに言うことは一生無いだろうと思う。
求めてもらえないから、伝えてもらえないから、わたしはりゅうじとは一緒には居たくとも、許可をもらえないんだと思ってきた。
でも逆だ。
許可を上手に出せないからこそ、わたしは山下の側にただ行けばいい。福島は遠いし、初めては怖いし、行ったことない場所に行くのは嫌だ。
でもわたしには、山下がいる。次にどこか別の場所に行くと言われたら、山下がいる場所に行けばいい。そうすれば、わたしにとっては、いつも安心できる場所になる。
りゅうじが、わたしのサポートをしたいと言ってくれるのは、きっと、唯一わたしたちがつながることができる、わかりやすい名目だったから。
でも、きっと本当はそうじゃない。わたしたちは、自分の意思を上手に言葉にできなかったから、ずっと、一緒にいられる理由を探してた。
だから、ガンになっても、健康でも、側にいたいから、いればいい。
りゅうじが嫌じゃないなら、わたしが福島に行けばいい。
そして、そういう場所のことを、本当の家族と呼ぶのだとわたしはそう思う。