どうでもよくなってきてて、よかった。
過去の、いのちの尊さみたいなブログを読むと、必死でそれを伝えようとしてて、生きようとしてて、生への執着がすごいんだと感じる。それだけ生きることが難しかったからだけど、そこはやっとこの7月に本気で死ぬことを選ぼうとして、抜けたのだと思う。それからもタオ君とパニックに陥るたびに、死ぬ方がいいと普通に思って実行しようとするし、何も構わないとそう感じる。
生きることは、素晴らしいことなんだよ、当たり前じゃないんだよ、それを伝えたかった終生だけど、誰にも最後気づいてもらえなかったことで、もうどうでもいいことなのだとそう思った。
彼らにとっては、生きることは当たり前のことであり、鬱とかになって死にたいと思っても、そんなのは一時てきなものだ。もうそういう人たちと関わりたくない。誰とも関わりたくない。生きることの意味も、ぎりぎりでSOSを出しているその痛みを軽々しく扱って逆ギレする人たちも、もう関わりたくない。
命懸けで生きて、それに気づいて手を差し伸べてくれる人はいない。
小さい子供と同じなんだということに、一瞬表面だけ気づいても、どうこう助けなくてはと動く人も誰もいない。
それ以上も以下でもない。でもわたしは自分でそのことをちゃんと知っていて、そういう人たちが日本で虐げられて地獄の思いをしていて、なお皆ぼんやり生きていることを知っている、それだけで十分だ。
過去の記事が、本当に過去になって、今自分がどこに向かっているのかはまだわからない。
でも生きるとか死ぬとかの境目で地獄を味わい、そのことについて気づいて目覚めて愛をアップデートしてほしい、という世界への祈りはもう尽きた。わたしは一度だけでなくこれまで何度もそして、殺された。
そんな世界に何も期待はできないけれど、自分がただ粛々と穏やかに過ごせるために工夫をすることはできる。
日本のそういう人々をいつか許せる日が来るのだとしたら、わたしは助けてもらえるのかもしれない。
本質的ではない助けを。
要らないと思う。
死んだほうがマシだ。もう疲れた。
みんな、自分がヒーローになって与えることで優越感を感じ、役に立ったと錯覚し、それが消えた瞬間に怒って去る、ただの自己満足じゃないか。
そうじゃない人たちは少ないけどいる。
まだまだ殺されかけ続けたことのトラウマは、消える気配がない。
でも今はそれでいい。
ただ自分のことを大切にしていきたい。