変化とか、移り変わりのなかでしか
自分があることを確かめられないのは確かに
もんだいであるのかもしれないが。
季節外れのクリスマスソングを聞きすぎていたせいで
光に彩られた街並から初夏の風が吹く
あまり、むずかしいことはわからなかったが、ともかく感じるには、
あまり、わからないもののままとしてそっとしておくことが、
よりロマンティックだったりすることは
間違いないのだ。
感じることは、そのままで美しかったり
そのままで気持よかったりするものなので、
26年間つきあってきたそれに今更名前をつけられたり
分類すること自体がナンセンスなようなきもする。
海から空を臨んでいた人魚が、意外と陸に上がってみたら
息ができたりすることもきっとある。
できるようになりたいことはたくさんあったのだ。
でも、できないことがおおすぎてそればかりに気をとられ
できることもできなくなっていた。
変化とか、移り変わりが全てではないにしろ、
時にそれが必要であることは確かだ。
わたしの手は、二本ある。
二本しかないので、抱えられるものは、ほんの少し。
当たり前だ。
わたしには、何もなくていい。
愛するひとたちがいるこの場所で、
わたしは在る。
2017-2-21追記
”共感覚”という言葉を初めて知ったとき。
赤ん坊の頃、五感の境目がない状態(味覚を色で感じたり、音を触覚で感じたりすること)
が大人になっても続いている人のこと。100人〜2000人にひとりの割合と書いてあるが、わたしは自分が持っていたその感覚が2009年まで全員同じなのだと思っていた。